子供が夜中に起き、そのまま自分が眠れなくなってしまい、布団に横になっていると
やけに過去のことが思い出されてしまい、余計に眠れなくなってしまった。
今回帰国して思ったのは、だんだん会いたい人に会えなくなっていってるってこと。
ひとりではないので、自由にうごくこともできず、友人とも疎遠になりがち。
特に、旅先で知り合った人というのは、独り身であるとかに関わらずずんずんと縁が薄くなっている。
日本全国に散らばっているので一度に会えるはずもなく。
で、井伏鱒二を思い出した。
唐(618-907)の于武陵の五言絶句「勧酒」
勧君金屈卮
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
を彼はこう訳した。
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
ところで、漢詩を日本語訳したもの、は高校時代からその響きが好きだったが、酔いどれ詩人のこの詩がすばらしい。
《山中与幽人对酌》李白
两人对酌山花开
一杯一杯复一杯
我醉欲眠君且去
明朝有意抱琴来
両人対酌すれば 山花開く
一杯 一杯 また一杯
我酔うて眠らんと欲す 卿はしばらく去れ
明朝意あらば 琴を抱いて来れ
一度李白を読み込んでみたいが、書店で売っている本は、たとえば岩波など、唐詩選であって、李白個人のものはないようだ。
また、漢詩を読むなら、日本語訳とともに、中国語読みができるようピンイン(よみがなみたいなもの)が記されたものが望ましいが、なかなか見つからない。
ピンインは調べるのが大変だし、また現代語とは読みが違ってくる。
漢詩の日本語訳で高校時代に教師が言ったことをまだ覚えている。
孔子の
有朋自远方来不亦乐乎
訳は、
ともあり、えんぽうよりきたる、またたのしからずや。
と
とも、えんぽうよりきたるあり、またたのしからずや。
の二つがあると。
で中国に留学したときに習ったニュアンスでは、
あるともだちが遠くから来たんよ、たのしいなあ。
みたいな感じであった気がする。
訳というのは、やっぱり訳なんだなあと思った次第。
つまり、訳した後はまるで、
噛んで噛んでまるで味のしなくなったするめみたいに味がごっそり抜け落ちてしまう、と思う。
だから、ドストエフスキーなんかもただのしゃべり過ぎにしか思えなくなってしまう。
まあとにかく、漢詩は落語の次に面白そうだ。
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