”ジロリの女”
「私は肉体にこだわるものではありません。終戦後、様々な幻滅から、私の考えも変りましたが、然し、理想をすてたわけではありません。肉体の純潔などゝいうことよりも、もっと大切な何かゞある。そういう意味で、私はもはや肉体の純潔などに縛られようとは思わなくなっているのです。然し、肉体を軽々しく扱うつもりはありませず、肉慾的な快楽のみで恋をする気もありませぬ。社長はよく仰有いますね。恋は一時のもの、一時的な病的心理にすぎないのだから、と。それは私も同感致しておりますのです。然し、恋の病的状態のすぎ去ったあと、肉体だけが残るわけではありますまい。私は恋を思うとき、上高地でみた大正池と穂高の景色を思いだすのでございます。自然があのように静かで爽やかであるように、人の心も静かで爽やかで有り得ない筈はない、人の心に住む恋心とても、あのように澄んだもので有り得ないことはなかろうと、女心の感傷かも知れませぬ、けれども、私の願いなのです。夢なのです。私は現実に夢をもとめてはおりませぬけれども、その夢に似せて行きたいとは思います。私は肉体や、その遊びを軽蔑いたしてはおりませぬ。肉体を弄ぶことも、捨てることも怖れてはおりませぬ。たゞその代償をもとめています。それの代りに、ほかに高まる何かゞ欲しいと思います。女の心は、殿方の心によって高まる以外に仕方がないとも思います。私の心を高めて下さる殿方ならば、私はどなたに身をおまかせ致しても悔いませぬ」
「私の心は、浮気です。そして、私の浮気の心を縛りつけてくれる鎖となるような、大きな力が知りたいのです。欲しいのです」
ヤス子の目に浮気の光は見ることができない。然し、誰よりも浮気であるかも知れないことを、私もたしかに信じていた。
ヤス子はダンスホールの喧噪の中でも、いつもと変らぬ自若たる様子である。他に無数の踊り狂い恋い狂う人々があることに、目もくれる様子がなかった。それは、そういうことに無頓着なわけではなくて、そういうものゝ最高を見つめ、そのためには、いつ何時でも身をひるがえして飛び去る用意ができているから、という様子でもあった。
「今日は泊りにつれて行って」
と、ヤス子はハッキリと申しでる。その目に色情の翳が宿っていないものだから、私はヤス子の無限の色情、浮気心に圧倒されてしまうのだった。
私はヤス子が妖婦に見えた。これが本当の妖婦だと思うようになっていた。
「三船さん。私は今こそあなたを愛すことができると信じられるようになったのです。以前はそうではなかったのです。軽蔑も、どこかに感じておりました。汚なさも、どこかに感じておりました。今はそうではありません。尊敬の思いすらもいだいております。私はあなたから、人の子の罪の切なさを知りました。罪のもつ清純なものを教わりました。あなたはたゞ弱い方です。然し、あなたは清らかな方です。いつか、あなたに申したでしょう。上高地で見た大正池と穂高の澄んだ姿のように、人の姿も自然のように澄まない筈は有り得ないのだ、と。三船さん。私は今では、私自身の中ではなしに、あなたのお姿の中に、上高地の澄んだ自然を感じることができるようになりましたのです。私は、この私の感じの正しさを信じております。私はいつまでもお待ちしております。今すぐに自首して下さい。そして、お帰りの日を」
”夜長姫と耳男”
オレは一心不乱にヒメを見つめなければならないと思った。なぜなら、親方が常にこう言いきかせていたからだ。
「珍しい人や物に出会ったときは目を放すな。オレの師匠がそう云っていた。そして、師匠はそのまた師匠にそう云われ、そのまた師匠のそのまた師匠のまたまた昔の大昔の大親の師匠の代から順くりにそう云われてきたのだぞ。大蛇に足をかまれても、目を放すな」
だからオレは夜長ヒメを見つめた。オレは小心のせいか、覚悟をきめてかからなければ人の顔を見つめることができなかった。しかし、気おくれをジッと押えて、見つめているうちに次第に平静にかえる満足を感じたとき、オレは親方の教訓の重大な意味が分ったような気がするのだった。のしかかるように見つめ伏せてはダメだ。その人やその物とともに、ひと色の水のようにすきとおらなければならないのだ。
オレは夜長ヒメを見つめた。ヒメはまだ十三だった。身体はノビノビと高かったが、子供の香がたちこめていた。威厳はあったが、怖ろしくはなかった。オレはむしろ張りつめた力がゆるんだような気がしたが、それはオレが負けたせいかも知れない。そして、オレはヒメを見つめていた筈だが、ヒメのうしろに広々とそびえているノリクラヤマが後々まで強くしみて残ってしまった。
オレが逆吊りにした蛇の死体をオレの手が斬り落すか、ここからオレが逃げ去るか、どっちか一ツを選ぶより仕方がないとオレは思った。オレはノミを握りしめた。そして、いずれを選ぶべきかに尚も迷った。そのとき、ヒメの声がきこえた。
「とうとう動かなくなったわ。なんて可愛いのでしょうね。お日さまが、うらやましい。日本中の野でも里でも町でも、こんな風に死ぬ人をみんな見ていらッしゃるのね」
それをきいているうちにオレの心が変った。このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界はもたないのだとオレは思った。
ヒメは無心に野良を見つめていた。新しいキリキリ舞いを探しているのかも知れなかった。なんて可憐なヒメだろうとオレは思った。そして、心がきまると、オレはフシギにためらわなかった。むしろ強い力がオレを押すように思われた。
オレはヒメに歩み寄ると、オレの左手をヒメの左の肩にかけ、だきすくめて、右手のキリを胸にうちこんだ。オレの肩はハアハアと大きな波をうっていたが、ヒメは目をあけてニッコリ笑った。
「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに」
ヒメのツブラな瞳はオレに絶えず、笑みかけていた。
オレはヒメの言う通りだと思った。オレも挨拶がしたかったし、せめてお詫びの一言も叫んでからヒメを刺すつもりであったが、やっぱりのぼせて、何も言うことができないうちにヒメを刺してしまったのだ。今さら何を言えよう。オレの目に不覚の涙があふれた。
するとヒメはオレの手をとり、ニッコリとささやいた。
「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」
ヒメの目が笑って、とじた。
オレはヒメを抱いたまま気を失って倒れてしまった。
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